霧の長江を進む帆船と、切り立った崖の山々の墨絵

THE THREE KINGDOMS 184–280

はじめての人でもわかる、三国志

400年続いた帝国が崩れ、英雄たちが天下を争った100年の物語

魏蜀呉
もう少しくわしく

今日は、三国志をまったく知らない人に向けて、「結局どういう話なの?」がわかるところまで一緒にたどっていきます。表紙の絵は、霧の中を進む長江の船団を描いています。

三国志は、およそ1800年前の中国で、400年続いた漢という帝国が崩れていくなかで、英雄たちが天下を争った100年の物語です。出てくる国は魏・蜀・呉の三つ。この三つの色を覚えておくと、このあとの話が追いやすくなります。

5つの部に分けて、「三国志とは」「100年の流れ」「物語の仕掛け」「人物」「楽しみ方」の順に見ていきます。最後には、明日から三国志を楽しめる入り口も紹介します。

補足メモ

「三国志」という言葉は、もともとは3世紀に書かれた歴史書の名前です。そこから、この時代そのものや、のちに書かれた小説・マンガ・ゲームまで、まとめて「三国志」と呼ばれるようになりました。

魏の青、蜀の緑、呉の赤茶という色分けは、このスライドでの約束です。昔からの決まりではありませんが、ゲームやマンガでも国ごとに色を分けて描かれることが多いです。

一言でいうと

漢という大帝国が崩れていく中で、英雄たちが天下を奪い合い、3つの国に分かれて争った物語。

約100年

184年(黄巾の乱)から 280年(晋の統一)まで

もう少しくわしく

まずは一言で。三国志は、漢という大帝国が崩れていく中で、英雄たちが天下を奪い合い、最後は3つの国に分かれて争った物語です。

期間はおよそ100年。184年の黄巾の乱から、280年に晋が中国を統一するまでです。ひとつの帝国が壊れて、また一つにまとまるまでの、長い分裂の時間と言えます。

日本でいうと、ちょうど卑弥呼の邪馬台国と同じころです。実は、卑弥呼のことが書かれた「魏志倭人伝」は、この時代の歴史書『三国志』の一部なんです。次は、三つの国がどこにあったのかを地図で見てみましょう。

補足メモ

卑弥呼は239年(238年とも)、魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印を受けたと記されています。日本の古代史と三国志は、同じ本の中でつながっています。

「漢」は前202年から220年まで、途中で一度とぎれながらも約400年続いた王朝です。漢字・漢民族・漢方など、今の言葉にも名前が残っているほど、中国の「基準」になった時代でした。

登場する三つの国

三つの国、三人のリーダー

三国の位置と主な戦いの場所の模式図(230年ごろの勢力) 魏 蜀 呉 黄河 長江 洛陽 成都 建業 官渡 200 赤壁 208 夷陵 222 五丈原 234
都主な戦い(年)色の範囲は230年ごろの勢力(おおまかな模式図)
丘の上から大軍の陣営を見下ろす武将の後ろ姿の墨絵魏北|中原(中国の中心部)曹操実力主義のリアリスト。皇帝を保護して大義名分を握る
馬を引き、民と一緒に道を歩く人物の後ろ姿の墨絵蜀西|山に囲まれた蜀の地劉備漢王室の末裔を名乗る、人望型のリーダー
長江の船団と城を高台から見守る人物の後ろ姿の墨絵呉南東|長江の下流・江南孫権父と兄から受け継いだ地盤を守る、堅実な後継者
もう少しくわしく

三つの国の場所を、地図で見てみましょう。北の広い平野を押さえたのが魏、西の山に囲まれた土地にあるのが蜀、南東の長江の下流にあるのが呉です。カードの小さな絵は、大軍を見下ろす曹操、民と歩く劉備、長江を見守る孫権です。

地図を見るとわかるように、魏が圧倒的に大きいんです。人口も兵力も魏がいちばん。だから、蜀と呉が手を組んで魏に対抗する、というのが基本の構図になります。

リーダーは、魏が曹操、蜀が劉備、呉が孫権。この三人の名前と国の組み合わせさえ押さえれば、三国志で迷子になりません。赤い印は、このあと出てくる大きな戦いの場所です。

補足メモ

都は、魏が洛陽、蜀が成都、呉が建業(今の南京)。曹操が生きていたころの本拠地は許(許昌)や鄴で、洛陽が魏の都になるのは曹丕が皇帝になってからです。

地図の範囲はおおまかな模式図です。国境は時期によって大きく動き、荊州(長江の中流)は魏・蜀・呉の三者が取り合った「三国志の火薬庫」でした。

黄色い布を頭に巻き、農具を手に荒野を進む農民たちの後ろ姿と、遠くの城の墨絵

流れ ①

崩壊のはじまりと、群雄割拠

184

黄巾の乱

政治の腐敗に苦しむ民衆が大反乱。鎮圧した武将たちが力を持ち始める

189

董卓が都を支配

皇帝を操る暴政に反発し、武将たちが各地で独立。戦国時代のような状態に

200

官渡の戦い

曹操が北の最大勢力・袁紹を破り、一気に最強勢力へ

もう少しくわしく

ここからは、100年の流れを4つに分けて見ていきます。最初は、帝国が崩れはじめる場面です。絵は、黄色い布を頭に巻いて立ち上がった農民たちが、荒野を都へ向かって進む姿を描いています。

184年、政治の腐敗と飢饉に苦しんだ民衆が、黄色い布を頭に巻いて立ち上がりました。これが黄巾の乱です。反乱は鎮圧されますが、鎮圧のために力を与えられた武将たちが、そのまま各地で力を持つようになります。そこへ189年、董卓という武将が都を押さえて皇帝を思いのままに操り、反発した武将たちが各地で独立しました。

そして200年の官渡の戦いで、曹操が北の最大勢力だった袁紹を破り、いちばん強い勢力にのし上がります。ここから、曹操を軸に物語が回りはじめます。

補足メモ

黄巾の乱を起こしたのは、張角が率いる「太平道」という宗教の集団でした。「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」という言葉を掲げたといわれます。

董卓は190年に都を洛陽から長安へ移し、192年に部下の呂布に討たれます。196年には、曹操が行き場を失った皇帝(献帝)を許に迎え入れ、「皇帝を守る」という大義名分を手にしました。

鎖と板の橋でひとつにつながれた大船団に火が燃え広がり、兵士が板の上を逃げまどう墨絵

208年 最大のターニングポイント

赤壁の戦い

天下統一目前の曹操の大軍を、劉備と孫権の同盟が長江で撃退。

「曹操一強」が崩れ、三者が並び立つ構図がここで決まった

もう少しくわしく

そして208年、三国志で最大のターニングポイントがやってきます。赤壁の戦いです。絵は、鎖と板でひとつにつながれた曹操の船団に、火が燃え広がっていく場面です。船どうしがつながっていたので、火がつくと逃げられず、次々に燃え移りました。

北をほぼ平定した曹操は、大軍を率いて南へ向かいました。あと一歩で天下統一というところで、劉備と孫権が手を組み、長江の赤壁で曹操の大軍を退けます。火を使った攻撃が決め手になったと伝えられています。

この戦いで「曹操一強」が崩れ、魏・蜀・呉の三者が並び立つ形がここで決まりました。この一枚が、三国志という物語の折り返し地点です。

補足メモ

曹操の船がつながれていたことは、正史にも書かれています。呉の黄蓋が「曹操軍は船を連ねて、船首と船尾がくっついている。焼けば追い払える」と進言し、自分が降伏するふりをして、燃えやすい草と油を積んだ船で近づき、火を放ちました。演義ではここに、龐統が曹操に「船を鎖でつなぎ、板を渡せば揺れなくなる」と勧める「連環の計」の話が加わります。北の兵は船に慣れておらず、船酔いに苦しんでいたため、曹操はこの案を喜んで受け入れた、という筋書きです。

演義では、諸葛亮が祭壇で東南の風を呼ぶ場面や、わら人形を積んだ船で敵の矢を集める場面が有名です。ただ、史実で作戦を指揮した主役は、呉の周瑜でした。

戦いの場所は、今の湖北省のあたりといわれますが、正確な位置には諸説あります。曹操軍が退いた理由には、火攻めのほかに疫病の流行もあったと記録されています。

流れ ②

三国の成立

220年 魏

曹操の息子・曹丕が、漢の皇帝から位を譲らせて建国

221年 蜀

劉備が「漢の正統を継ぐ」として皇帝に即位

229年 呉

孫権も皇帝を名乗り、三人の皇帝が並び立つ

400年続いた漢が終わり、「三国時代」が正式に始まる

もう少しくわしく

赤壁のあと、三者はそれぞれ地盤を固め、ついに国を名乗ります。

220年、曹操が亡くなると、息子の曹丕が漢の皇帝から位を譲らせて、魏を建てました。これに対して劉備は、221年に「漢を正しく継ぐのは自分だ」として皇帝に即位します。孫権も少し遅れて229年に皇帝を名乗り、三人の皇帝が並び立つことになりました。

ここで、400年続いた漢が正式に終わり、「三国時代」が始まります。ただ、この三国の時代は、実は長くは続きません。

補足メモ

劉備が「漢を継ぐのは自分だ」と言えたのは、漢の皇帝と同じ「劉」の一族で、前漢の景帝の子・中山靖王劉勝の子孫だと名乗っていたからです。曹丕が皇帝になったとき、蜀には「漢の皇帝(献帝)が殺された」という知らせが伝わりました。劉備の側は、皇室の血を引く自分が漢を立て直すのが筋だとして、国の名前もそのまま「漢」にしたのです。

ただ、劉勝が生きていたのは劉備より300年ほど前で、劉勝には子どもが100人以上いたといわれます。若いころの劉備は、母とむしろやわらじを売って暮らしていたと正史にあり、途中の系図ははっきりしません。「劉」という姓だけでは本当の先祖は分からず、皇室の末裔という名乗りは、血筋の証明というより、人を集めるための大義名分として大きな力を持ちました。なお、実際の献帝は殺されておらず、位を譲ったあとも山陽公として234年まで生きています。

劉備が建てた国の正式な名前は「漢」です。前の漢と区別するために、後の時代の人が地名をとって「蜀」や「蜀漢」と呼びました。

位を譲らせて王朝を替えるやり方を「禅譲」といいます。形の上では平和な引き継ぎですが、実際は力のある側が譲らせたものでした。このやり方は、のちに魏自身もされることになります。

秋の夜の陣営。ひとつの天幕に灯りがともり、空に流れ星が落ちていく墨絵

流れ ③

主役たちの退場

219

関羽が討たれる

蜀の看板武将が、同盟相手だった呉に攻められて戦死

222

夷陵の戦い

関羽の仇討ちに出た劉備が、呉の陸遜に大敗。翌年に死去

234

五丈原

後を託された諸葛亮が、魏との戦いの陣中で没する

もう少しくわしく

三国が並び立ったあと、物語を引っぱってきた主役たちが、次々に舞台を降りていきます。絵は、五丈原の陣営で諸葛亮の天幕だけに灯りがともり、空に星が流れる夜を描いています。演義では、この流れ星が孔明の死を告げたとされています。

219年、蜀の看板武将・関羽が、同盟相手だった呉に攻められて命を落とします。怒った劉備は仇討ちの軍を出しますが、222年の夷陵の戦いで呉の陸遜に大敗し、翌年に亡くなりました。

後を託された諸葛亮は、魏を倒すために何度も北へ攻め込みますが、234年、五丈原の陣中で病に倒れます。物語としての三国志の山場は、だいたいこの五丈原で終わり、ここから先は「後日談」のような扱いになります。

補足メモ

劉備は亡くなる前、白帝城で諸葛亮に「息子に才能がなければ、君が国を取ってよい」と後を託したと伝えられています。諸葛亮は最後まで劉備の息子・劉禅を支え続けました。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」は、諸葛亮が亡くなったあと、退く蜀軍を追った司馬懿(字は仲達)が、まだ孔明が生きているのではと警戒して引き返した、という話から生まれた言葉です。

流れ ④

結末:天下を取ったのは「晋」

263

蜀が滅ぶ

三国のうち最初に、魏に攻め滅ぼされる

265

魏が「晋」に変わる

司馬懿の孫・司馬炎が帝位を譲らせる。実質、家臣による乗っ取り

280

晋が呉を滅ぼし、統一

最後まで残った呉も、ほぼ無抵抗に近い形で降伏

もう少しくわしく

では、最後に天下を取ったのはどこだったのでしょうか。

263年、三国のうち最初に、蜀が魏に攻め滅ぼされます。ところがその2年後の265年、今度は魏の中で、家臣だった司馬懿の孫・司馬炎が皇帝から位を譲らせ、「晋」という新しい王朝を建てました。魏が曹丕に位を譲らせて始まったのと、同じやり方で終わったわけです。

そして280年、晋が最後に残った呉を滅ぼし、中国はふたたび一つになります。呉は最後まで残ったので「呉が勝った」と思われがちですが、実際は「いちばん最後に倒された国」でした。

補足メモ

司馬一族が魏の実権を握ったきっかけは、249年に司馬懿が起こした政変(高平陵の変)です。そこから息子の司馬師・司馬昭、孫の司馬炎へと、三代かけて力を固めていきました。

蜀が滅んだとき、皇帝の劉禅は降伏して洛陽に移り、そこで穏やかに余生を送ったと伝えられています。

ここがポイント

結局、三国のどれも
勝っていない。

100年の争いの末に天下を取ったのは、魏の家臣だった司馬一族。英雄たちの戦いの「果実」を持っていったのは、主役ではなかった人たちだった。

さらに晋もやがて分裂し、中国の本格的な再統一は589年の隋まで待つことに

もう少しくわしく

ここが、三国志のいちばん面白いポイントです。結局、三国のどれも勝っていないんです。

100年の争いの末に天下を取ったのは、魏の家臣だった司馬一族でした。曹操も劉備も孫権も、英雄たちが命がけで戦った果実を持っていったのは、物語の主役ではなかった人たちだったわけです。

しかも、その晋もやがて内乱で分裂し、中国の本格的な再統一は589年の隋まで待つことになります。三国志の時代は、ここから約300年続く長い分裂期の「入り口」だったとも言えます。

補足メモ

晋は統一後まもなく、皇族どうしの争い(八王の乱)で弱り、北方の遊牧民の勢力に華北を奪われます。そのあと中国は、北と南に分かれた時代(五胡十六国・南北朝)へ進みます。

「主役が勝たない」結末だからこそ、読む人は「もしあのとき」を考えたくなります。勝者の物語ではないところが、三国志が長く愛される理由のひとつかもしれません。

重要人物 | 魏

魏:実力主義の組織

曹操そうそう

魏の基礎を築いた実質的な主役。家柄より能力で人材を登用

曹丕そうひ

曹操の息子。漢の皇帝から位を譲らせ、魏を建国した初代皇帝

司馬懿しばい

諸葛亮の宿敵。のちに一族で魏を乗っ取る、晋の生みの親

司馬懿こそ、三国志で「最後に笑った人」の祖

もう少しくわしく

ここからは、国ごとに主な人物を見ていきます。まずは魏です。

魏の基礎を築いたのは曹操。家柄よりも能力を重視して人材を集め、北の中国をまとめ上げました。息子の曹丕は、漢の皇帝から位を譲らせて魏の初代皇帝になります。

そして覚えておきたいのが司馬懿です。諸葛亮の宿敵として知られますが、のちに一族で魏の実権を握り、晋を生み出すことになります。三国志で「最後に笑った人」の祖と言っていい人物です。

補足メモ

曹操は演義では悪役として描かれますが、史実では、身分を問わず才能のある人を集めると宣言した「求賢令」や、兵士に土地を耕させる屯田制など、実務に強いリーダーでした。詩人としても一流で、近年は再評価が進んでいます。

曹丕も文学に優れ、文学を論じた文章を残しています。曹操・曹丕・曹植の親子は「三曹」と呼ばれ、この時代の文学を代表する存在です。

雪の積もった草庵へ続く道で、文官の装いの人物と二人の武将が待つ後ろ姿の墨絵

重要人物 | 蜀

蜀:義兄弟と軍師の絆

劉備りゅうび

武力も地盤もないところから、人望だけでのし上がった建国者

関羽かんう

忠義と武勇の象徴。のちに神として祀られ、今では商売の神様に

張飛ちょうひ

劉備の義兄弟。豪快で酒好き、短気な猛将

諸葛亮しょかつりょう

三顧の礼で迎えられた天才軍師。劉備の死後も蜀を支えた

趙雲ちょううん

劉備の幼い息子を戦場から救い出した忠臣。演義で大人気

もう少しくわしく

次は蜀です。蜀は、義兄弟と軍師の絆の物語として人気があります。絵は、雪の中、劉備が関羽と張飛を連れて諸葛亮の草庵を訪ねる「三顧の礼」の場面です。

劉備は、武力も地盤もないところから、人望だけでのし上がった人物です。関羽と張飛は、劉備と義兄弟の契りを結んだ猛将。そして、劉備が三度も自ら足を運んで迎えた天才軍師が諸葛亮です。この「三顧の礼」は、今でも目上の人が礼を尽くして人を迎える意味で使われます。

趙雲は、戦場で劉備の幼い息子を救い出した忠臣として、演義で大人気の武将です。蜀は国の大きさでは一番小さいのに、人物の魅力で物語の中心に立っている国なんです。

補足メモ

劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結ぶ「桃園の誓い」は、演義の名場面です。史実では、三人は「兄弟のように」親しかったと記されています。

関羽はのちに神として祀られ、「関帝」として商売の神様にもなりました。日本でも横浜中華街などに関帝廟があります。諸葛亮は、字(あざな)の「孔明」の名前でも知られています。

重要人物 | 呉

呉:代替わりしても人材で回る組織

孫策そんさく

孫権の兄。若くして江南を平定し土台を作るも、26歳で急死

孫権そんけん

呉の皇帝。人材を活かすのがうまく、長く国を保った

周瑜しゅうゆ

赤壁の戦いの司令官。史実では、赤壁の本当の主役は彼

魯粛ろしゅく

劉備との同盟を推し進めた、呉の外交の要

陸遜りくそん

劉備の仇討ち軍を、夷陵の戦いで撃破した若き名将

もう少しくわしく

三つめは呉です。呉は、代替わりしても人材で回る組織として見ると面白い国です。

土台を作ったのは孫権の兄・孫策です。若くして江南を平定しましたが、26歳で急死します。後を継いだ孫権は、周瑜や魯粛といった人材をうまく活かし、長く国を保ちました。

周瑜は赤壁の戦いの司令官、魯粛は劉備との同盟を進めた外交の要、陸遜は夷陵の戦いで劉備の大軍を破った若き名将です。リーダーが替わっても、人がつないでいく。それが呉の強さでした。

補足メモ

演義では、周瑜が諸葛亮の引き立て役にされがちです。ただ史実では、周瑜は文武にすぐれた名将として高く評価されています。

孫権は皇帝として長く国を治めましたが、晩年は後継ぎ争いで国が揺れました。どんなに強い組織も、引き継ぎがいちばん難しい。三国のどの国にも共通するテーマです。

重要人物 | 序盤

物語を動かした、序盤のキーパーソン

董卓とうたく

皇帝を操って暴政を敷き、群雄割拠のきっかけを作った暴君

呂布りょふ

三国志最強の武将。裏切りを繰り返し、最後は曹操に処刑される

袁紹えんしょう

名門出身で一時は最大勢力。官渡の戦いで曹操に敗れ没落

もう少しくわしく

最後に、三国が成り立つ前の、序盤のキーパーソンを紹介します。

董卓は、皇帝を操って暴政をしき、群雄割拠のきっかけを作った人物です。呂布は、三国志最強ともいわれる武将ですが、主君を何度も裏切り、最後は曹操に処刑されました。袁紹は名門の出身で、一時は最大の勢力でしたが、官渡の戦いで曹操に敗れて没落します。

三人とも三国ができる前に退場してしまいます。でも、彼らがいなければ、曹操・劉備・孫権の時代は来ませんでした。

補足メモ

呂布は、もとの主君・丁原を討って董卓につき、さらにその董卓も討ちました。「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」という言葉で、武勇と名馬・赤兎馬がたたえられています。

袁紹の一族は「四世三公」と呼ばれ、四代にわたって最高位の大臣を出した名門でした。家柄の袁紹が、実力主義の曹操に敗れたことも、官渡の戦いが象徴的といわれる理由です。

知っておくと面白い

「正史」と「演義」は別物

歴史書|3世紀・陳寿

正史『三国志』

同時代の記録をもとにした歴史書。わりとドライで、善悪の色づけは少なめ

小説|明代・約1000年後

『三国志演義』

劉備=善玉、曹操=悪役の勧善懲悪。孔明の超人的な活躍も多くはこちら

日本で知られる三国志(吉川英治の小説、横山光輝のマンガなど)は、ほぼ演義ベース

もう少しくわしく

ここからは、三国志をもっと楽しむための話です。まず知っておくと面白いのが、「正史」と「演義」は別物だということです。

正史『三国志』は、3世紀に陳寿という人がまとめた歴史書です。同時代の記録をもとにしていて、わりとドライで、善悪の色づけは少なめです。一方の『三国志演義』は、それからおよそ1000年後の明の時代に広まった小説で、劉備が善玉、曹操が悪役の勧善懲悪の物語になっています。孔明の超人的な活躍も、多くはこちらです。

日本で知られている三国志、たとえば吉川英治の小説や横山光輝のマンガは、ほぼ演義がもとになっています。

補足メモ

陳寿は、もとは蜀に仕え、のちに晋に仕えた人物です。正史はかなり簡潔だったので、5世紀に裴松之という人が、ほかの記録を集めた注釈をつけました。今読まれている正史は、この注釈つきのものです。

演義の作者は、14世紀ごろの羅貫中とされます。演義のよく知られた場面には、民間の講談や芝居で語り継がれてきた話も多く入っています。

なぜ人気なのか

三つのリーダー像が、くっきり違う

魏|曹操

合理と実力

結果を出せる人を出自を問わず使う

蜀|劉備

義理と人情

人を惹きつけ、絆で組織を動かす

呉|孫権

守りと継承

受け継いだものを、人材で守り抜く

誰に感情移入するかで、読み方が変わる物語

もう少しくわしく

では、なぜ三国志はこんなに人気があるのでしょうか。理由のひとつは、三人のリーダー像がくっきり違うことです。

魏の曹操は「合理と実力」。結果を出せる人を、出自を問わず使います。蜀の劉備は「義理と人情」。人を惹きつけて、絆で組織を動かします。呉の孫権は「守りと継承」。受け継いだものを、人材で守り抜きます。

誰に感情移入するかで、同じ物語でも読み方が変わります。ビジネス書などで、組織論やリーダー論として三国志がよく引用されるのも、このためです。

補足メモ

日本では昔から劉備びいき・孔明びいきが強く、演義の影響もあって曹操は悪役のイメージでした。最近は、曹操を主人公にしたマンガやドラマも増え、見方が広がっています。

ゲームの「三國志」シリーズや「真・三國無双」など、ゲームから三国志に入った人が多いのも日本ならではです。

次の一歩

三国志の入り口、定番の二つ

マンガ

横山光輝『三国志』

絵で人物と戦いの流れがつかめる。はじめての人に一番おすすめ

小説

吉川英治『三国志』

日本の三国志像をつくった名作。人間ドラマをじっくり味わえる

まずは「魏・蜀・呉」と「曹操・劉備・孫権」を押さえれば、迷子にならない

もう少しくわしく

最後に、三国志の入り口として定番の二つを紹介します。

一つめは横山光輝のマンガ『三国志』です。絵で人物と戦いの流れがつかめるので、はじめての人にいちばんおすすめです。二つめは吉川英治の小説『三国志』。日本の三国志のイメージを作った名作で、人間ドラマをじっくり味わえます。

まずは「魏・蜀・呉」と「曹操・劉備・孫権」を押さえておけば、迷子になりません。どちらも演義がもとなので、慣れてきたら正史との違いを調べてみるのもおすすめです。今日はありがとうございました。

補足メモ

横山光輝の『三国志』は全60巻。長く読み継がれていて、マンガの中の場面やセリフがネットで話題になることも多い作品です。

吉川英治の『三国志』は、昭和の戦前期に新聞で連載されました。演義をもとにしながら、日本の読者向けに大胆に書き直されていて、のちの日本の三国志作品の多くがこの小説の影響を受けています。

歴史学習帳 企画展「はじめての人でもわかる、三国志」 個人の学習ノートです。年代や数字はおおよその目安・諸説ありとしてご覧ください。