境界線は流れをつかむためのおおまかな線です。正確な国境や支配範囲ではありません。
王朝が一度も替わらなかった国で、権力は誰がどうやって握ったのか。時代を選ぶと、その頃の地図と「力の出どころ」が見えてきます。地図はおおまかな模式図です。
個人の学習ノートです。数字や年はおおよその目安として見てください。
境界線は流れをつかむためのおおまかな線です。正確な国境や支配範囲ではありません。
上の地図の①〜⑭を、6つの時期に分けて並べました(⑮ソ連の参戦は、その下の地図Bで詳しく)。赤い範囲が、その時期に日本が支配していたところ(おおよそ)。赤い矢印が日本軍の進攻、青い矢印が連合国軍の反攻です。広がって、止まって、縮んでいく流れを左上から順に追えます。
南の戦場に兵を送るために、満州の関東軍から精鋭の部隊が次々と引き抜かれた。中身が空になった満州に、1945年8月、ソ連軍がなだれ込んだ。
1944年〜45年
関東軍の師団は、装備も訓練も整った陸軍の主力だった。戦況が悪くなると、サイパン陥落の前後から、太平洋の島々やフィリピン、沖縄へ次々と送られた。戦車や飛行機、燃料・弾薬も持ち出され、多くの部隊は送られた先で全滅に近い損害を受けた。
1945年8月9日〜9月5日
8月9日未明、ソ連軍は西・北・東の三方向から満州に攻め込み、朝鮮北部にも入った。11日からは南樺太、18日からは千島列島北端の占守島を攻め、15日の玉音放送のあとも戦いは続いた。北方四島は、8月28日から9月5日にかけて占領された。
この先、帰れなかった人々とシベリア抑留は「占領と独立」の章へ →
人数だけなら関東軍はソ連軍の4割ほど。しかしその多くは、直前に集めたばかりで訓練も武器も足りない兵だった。部隊によっては、戦える力がふつうの15%以下と見積もられていた。
期間は5年。日本は北のソ連と戦わない約束をして、南へ進む余裕をつくった。
ドイツがソ連に攻め込んだのを見て、関東軍を約70万人に増やし、ソ連を攻める準備をした。しかし政府は南へ進むことを選び、12月に太平洋戦争を始める。
南の戦場が苦しくなるたびに、関東軍の精鋭の師団や戦車・飛行機が引き抜かれていった(地図A)。
アメリカ・イギリス・ソ連の首脳が、ドイツの降伏から2〜3か月後にソ連が日本と戦うこと、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に渡すことを、ひそかに約束した。
4月、ソ連は中立条約を延長しないと通告。5月8日にドイツが降伏し、ソ連は兵と物資を東へ大量に運び始めた。
関東軍は満州に住む日本人の男性を大量に召集して人数を埋めた。作戦では満州の大部分を守るのをあきらめ、朝鮮に近い南東部にこもって戦う計画に変えていた。そのため、国境近くに入植した開拓団の人々は、ほとんど守られないまま取り残された。
ドイツ降伏からちょうど3か月。中立条約の期限が残るなかでの参戦だった。
降伏した兵士など約57万人がシベリアなどに連れて行かれて働かされ(シベリア抑留)、約5万5千人が亡くなった。逃げる途中で家族と離れた子どもたちは、のちに「中国残留孤児」と呼ばれる。千島列島の占領は、今の北方領土の問題につながっている。
誰が力を握っていたとき、経済はどうなっていて、世界とどう絡んでいたのか。同じ時期を横に並べました。米の印は、アメリカとの関係が直接かかわったできごとです。
日本の国内では、1945年8月15日に戦争が終わり、憲法ができ、独立を回復していく。けれども同じころ、海の向こうではまだ戦争が終わっていなかった。国内の歩みと、外で続いていたことを、同じ年の高さで並べてみます。
1956年、経済白書が「もはや戦後ではない」と書いたその年の暮れに、シベリアからの最後の集団引き揚げ船が舞鶴に着いた。
北朝鮮をソ連が支え、中国が軍を送った。韓国にはアメリカを中心とする国連軍がついた。朝鮮の人々どうしの戦争でありながら、冷戦の二つの陣営がぶつかった代理戦争でもあった。赤が北朝鮮軍、オレンジが中国軍、青が国連軍(韓国・アメリカなど)の動きです。
バブル崩壊後の1990年代は「失われた10年」と呼ばれた。停滞が2000年代、2010年代と続くにつれて、呼び名は「20年」「30年」と伸びていった。何が、どう失われたのかを並べます。
「失われた」という言い方には異論もある。成長の条件(円安・安い石油・若い人口・冷戦下のアメリカの後押し)がなくなったなかで、大きな混乱を起こさずに暮らしの安定を保った時代だった、という見方もある。上の「成長を支えた条件」の表と合わせて見てみてください。
1993年から2004年ごろに就職活動をした世代は、会社が新卒の採用を大きく絞ったため、正社員になる入口そのものが狭くなっていた。本人の努力ではどうにもならない、生まれた年による巡り合わせだった。その世代が、いまどこにいるのかまで追ってみます。
「ロスジェネ(ロスト・ジェネレーション)」という呼び名は、2007年ごろから新聞などで広まった。この世代は、2026年の今、40代半ばから50代前半にあたる。
平成・令和は、大きな地震と、豪雨・台風による風水害が続いた時代でもある。災害は被災地だけでなく、部品の流れ(サプライチェーン)や電力、観光を通じて、日本全体の経済を止める。とくに2018〜2019年は、風水害による損害が記録的な大きさになった。
| 年 | 災害 | 被害 | 経済への影響 |
|---|
激しい雨が増えている背景について、気象庁は地球温暖化が影響している可能性を指摘している。風水害の保険金の上位には、2018年と2019年の災害が4つ並ぶ。被害額の推計は、出した機関や時期によって幅がある。
プラザ合意のあと、円は2年あまりでほぼ倍の値打ちになり、そこから株価が駆け上がりました。2つのグラフを並べて見比べると、円高と超低金利のあとに山ができ、総量規制のあとで崩れていく流れがわかります。
円相場の値は年平均(アメリカ連邦準備制度の統計)。1ドル=240円前後だった円は、1988年には128円になった。株価は1985年末の約1万3千円から、1989年末には約3万9千円まで、4年で3倍になった。
高度成長は、人々の勤勉さや技術の力に加えて、いくつもの条件が同じ時期にそろったことで起きた、と考えられています。その条件は、1970年代から一つずつ外れていきました。
| 条件 | 高度成長のころ | 変わった・なくなったとき |
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条件がそろわない今の日本が、かつてのような成長を取り戻せるかについては意見が分かれる。人口が減るなかでの成長は難しいという見方がある一方、一人あたりの生産性を上げたり、新しい産業を育てたりすれば道はある、という見方もある。
明治から戦後まで、どの戦争や交渉で、どんな条約を結び、どこを得たり手放したりしたのかを年の順に並べました。色のついた行が、いま開いている時代のできごとです。
| 年 | 戦争・できごと | 結果 | 条約など | 得た領土・権利 | 手放した領土・権利 |
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千島列島のうち、どの島までを手放したのかについては、日本とロシアの主張が今も分かれている(北方領土の問題)。
どの時代にも関わる、天皇という仕組みそのものについての要点。
天皇の系譜は、神話から始まり、だんだん歴史に「接続」していく。
『日本書紀』では紀元前660年に即位したとされるが、これは伝説上の年。のちに中国の暦の考え方をもとに逆算して決めたと考えられている。
名前と系譜しか伝わらない。初期には100歳を超える天皇が何人もいて、そのまま事実とは考えにくい。
『日本書紀』に「初めて国を治めた天皇」とも書かれ、実在した最初の大王ではないかという説がある。
中国の歴史書(倭王武)や刀剣の文字(ワカタケル大王)という、外の証拠で確かめられる。
ここから先の系譜は、ほぼ確かだと考えられている。
呼び名にも注意。「天皇」という称号が使われはじめるのは7世紀後半の天武・持統天皇のころで、それまでは「大王(おおきみ)」と呼ばれていた。「〜天皇」という名前や何代目という数え方は、後の時代に整えられたもの。弘文天皇(大友皇子)が加えられたのは明治時代で、南北朝の北朝の天皇は代数に入っていない。
外の証拠で確かめられる最初の大王が、中国の皇帝から称号を借りた倭王武だというのも、このシリーズの視点から見ると興味深い。
飛鳥〜奈良時代には、都がひんぱんに移った。その移り方は、大きく三つの段階に分けられる。
大王が代わるたびに、宮(住まい兼政治の場)を新しく作るのが普通だった。亡くなった場所の「けがれ」を避けた、大王ごとに支える豪族の本拠の近くに置いた、などの見方がある。
中国の長安にならい、碁盤の目の本格的な都を作りはじめる。それでも、政治の転換や危機のたびに都は移った。
平安京は、明治時代に天皇が東京へ移るまで、約1000年にわたって都であり続けた(平清盛の福原遷都は半年ほどで京都に戻った)。そのかわり、鎌倉・室町(京都)・江戸と、幕府の置かれる場所が政治の中心として移っていく。
遷都は「新しい政治を始める」という宣言だった。平安時代からは、天皇の都はそのままに、実権者が別の場所に自分の拠点を作るようになる。これも「天皇から借りる」構造の表れといえる。
女性の天皇は8人、のべ10代。そのうち6人・8代が、飛鳥・奈良時代(592〜770年)に集中している。
この時代に多かった理由として、次のような見方がある。
770年の称徳天皇のあと、1629年の明正天皇まで約860年、女性の天皇は現れない。平安時代に、幼い天皇を摂政・関白が支える仕組みができ、女性の「橋渡し」が要らなくなったためという見方がある。江戸の2人も、男性の跡継ぎが幼いときなどの橋渡しだった。
権力の移り変わりで見ると、女性天皇は「次に誰へ位を渡すか」を握る役目だった。その役目を、平安時代には外祖父の摂関家が引き受けることになる。
特定の時代ではなく、日本史を通して出てくる仕組み。
中国の王朝は、禅譲や放伐で皇帝の位そのものを移した。日本の実権者は位には手を出さず、天皇から何かを借りる形をとった。
借りるだけなので、天皇家は残り続ける。その代わり、実権者が替わるたびに「誰が、何を借りているか」が変わっていく。
外戚とは、皇帝や天皇の母方の親族のこと。
中国では、外戚が宮廷で権力を握ることは王朝が滅ぶお決まりのパターンの第一歩だった。前漢を乗っ取った王莽もその一人。
日本では、外戚であること自体が権力の仕組みになった。藤原氏は位を奪わず、外戚の立場を代々受け継ぐことで、約200年にわたって政治の中心にいた。鎌倉時代の北条氏も、はじめは将軍の外祖父として力を得ている。
鎌倉幕府の将軍は、天皇から征夷大将軍の位を借りた。源氏の将軍が絶えると、北条氏は都から摂関家や皇族の子を将軍に迎え、その将軍の下で執権として政治を動かした。
天皇 → 将軍 → 執権、さらに北条本家(得宗)の家臣へと、実権はどんどん下へ移っていく。それでも上の位はどれも消されずに残った。