
飛鳥時代から令和まで
藤原氏の歴史
天皇のそばで生き抜いた1300年
もう少しくわしく
今日は、藤原氏というひとつの家が、飛鳥時代から令和までの約1300年、どうやって天皇のそばに居続けたのかをたどります。
教科書では、平安時代の摂関政治で一度出てきて終わりになりがちです。でも実は、その前にも後にも、ずっと物語が続いています。
6つのフェーズに分けて、「力を持つ」「力を失う」「それでも残る」という流れを見ていきましょう。最後は、みなさんの名字ともつながるかもしれないお話で締めくくります。

始まりは、ひとつのクーデターだった
中臣鎌足と中大兄皇子が手を組み、天皇をしのぐ権力者・蘇我入鹿を宮中で討つ
天皇を中心とした国づくりの「一連の改革」。鎌足はその中心人物として活躍
亡くなる直前の鎌足に、天智天皇が「藤原」を授ける。ここが藤原家のスタート
乙巳の変 = 645年に起きた「事件(クーデター)」 / 大化の改新 = その後の「改革全体」
「藤原」はもともと名字ではなく、天皇から与えられた特別な称号のようなものでした。
もう少しくわしく
藤原家の物語は、645年のクーデターから始まります。中臣鎌足が中大兄皇子と組んで、当時いちばんの権力者だった蘇我入鹿を、宮中で討ちました。
ここで押さえておきたいのは、乙巳の変は「事件」、大化の改新は「その後の改革」という違いです。
そして鎌足が亡くなる直前に、天智天皇から贈られたのが「藤原」という名前でした。藤原は、天皇との信頼関係から生まれた名前なんです。
645年、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿が討たれ、翌日には父の蝦夷も自害して、蘇我本家は滅びました。翌646年に出たとされる「改新の詔」は、『日本書紀』に載る文がどこまで当時のものかで議論があり、「大化の改新」の中身は今も見直しが進んでいます。
「藤原」は、鎌足ゆかりの大和国の地名とされます。鎌足はもともと中臣氏で、神さまの祭りを担う家の出身でした。698年には、藤原を名乗れるのは不比等の系統だけと決められ、ほかの一族は中臣に戻されています。
藤原家の必勝パターン「外戚政治」
娘を天皇の后にする
男の子を産む
次の天皇になる
母方の祖父に!
①→②→③→④→① の順に、時計回りでくり返す
- 国の基本法「大宝律令」づくりを主導
- 娘・宮子を文武天皇の夫人に
- 娘・光明子を、臣下の出身で初めて皇后に
天皇の「母方の親戚」=外戚になれば、国を動かせる。
もう少しくわしく
では、藤原家はどうやって力を持ち続けたのか。答えは、この4つのステップのくり返しです。
娘を天皇の后にして、生まれた子が天皇になれば、当主は天皇の「母方のおじいちゃん」になります。当時は子どもが母方の実家で育つことも多く、母方の親戚の発言力はとても大きかったんですね。
この型を最初につくったのが、鎌足の息子の不比等でした。法律づくりと結婚の両方から、一族の足場を固めていきます。
不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、生まれた首皇子がのちの聖武天皇です。さらに別の娘・光明子を聖武天皇の后にし、729年に皇后としました。皇后は皇族から選ぶのが慣例だったので、これは大きな前例破りでした。
この「娘を后に → 孫を天皇に」という型は、このあと平安時代の摂関政治で完成します。不比等は701年の大宝律令づくりにも中心的に関わり、法と婚姻の両方から一族の足場を固めました。
4人の息子、4つの家 ― 勝ち残ったのは「北家」
- 藤原不比等
- 南家武智麻呂が興す
- 北家房前が興すのちに権力を独占
- 式家宇合が興す
- 京家麻呂が興す
四兄弟の陰謀で、政敵の長屋王が自害に
権力を握った直後、四兄弟が全員病死
南家の仲麻呂が反乱を起こし敗死
→ 権力の集中は、意外ともろい。生き残った「北家」が、次の時代の主役になります。
もう少しくわしく
不比等には4人の息子がいて、それぞれが家を興しました。南家・北家・式家・京家です。
四兄弟は一時、政治の中心を握ります。ところが737年の天然痘で、4人とも亡くなってしまいました。その後も南家や式家が浮き沈みをくり返し、最後に残ったのが北家です。
権力を一か所に集めても、意外ともろい。この「生き残り」の感覚は、このあとの藤原家の歴史にもずっと出てきます。
四家の名前の由来は、南家・北家が兄弟の屋敷の位置(武智麻呂の家が房前の家の南にあった)、式家が宇合の役職(式部卿)、京家が麻呂の役職(左京大夫)からといわれます。
737年の天然痘で四兄弟が亡くなると、政治の中心は橘諸兄に移ります。南家の仲麻呂(恵美押勝)は一時権力を握りますが乱で敗れ、式家も810年の薬子の変でつまずきます。こうして最後に残ったのが北家でした。
「摂政」と「関白」は、藤原家の発明品
794年 平安京へ。北家の藤原冬嗣が、天皇の側近組織(蔵人所)の初代トップの一人に → 北家の逆転劇がスタート
- 幼い天皇の代わりに政治をする役
- それまでは皇族しかなれなかった
- 成人した天皇のもとでも実権を握る役
- 藤原家が新しく作らせたポジション
皇族でなくても、国のトップに立てる仕組みが完成
もう少しくわしく
平安京に都が移ると、北家がぐっと前に出てきます。カギになるのは、摂政と関白という2つのポストです。
摂政は、それまで皇族しかなれなかった役でした。そこに良房が、皇族以外で初めて就きます。そして関白は、天皇が大人になっても実権を握れるように、新しく生まれた役でした。
決められたルールの中で勝つのではなく、ルールそのものをつくってしまった。ここが藤原家のすごいところです。
冬嗣は810年の薬子の変のとき、嵯峨天皇の側近として新しく置かれた蔵人頭になり、北家が浮上するきっかけをつかみました。
その子・良房は、858年に孫の清和天皇が9歳で即位すると政治を取りしきり、866年の応天門の変をきっかけに正式に摂政となります。「関白」という言葉が詔に初めて出てくるのは、887年、宇多天皇が基経に向けたものです。
ライバルを一つずつ消して、頂点へ
およそ130年をかけて、ライバルの家を一つずつ政治の中心から外していきました。そして北家の独占が完成したところに現れるのが、藤原道長です。
もう少しくわしく
摂政・関白の仕組みができても、ライバルはまだいました。伴氏、橘氏、菅原道真、そして源氏です。
藤原北家は、事件が起きるたびに、ライバルを一つずつ政治の中心から外していきました。年表で見ると、およそ130年かけて少しずつ、という進み方なのがわかります。
一気に奪うのではなく、時間をかけて固めていく。そうして独占が完成したところに登場するのが、藤原道長です。
842年の承和の変では皇太子が替えられ、良房の甥(のちの文徳天皇)が皇太子になりました。901年に大宰府へ流された菅原道真は2年後に亡くなり、その後に続いた天変地異が祟りとされて、天満宮で神として祀られるようになります。

欠けたることも、なしと思へば
- 娘たちを次々に天皇の后へ
- 3代の天皇の「母方の祖父」に
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
→ 満月のように、欠けたものは何もない。完璧で満ち足りていると感じている。
- 約50年、摂政・関白の座に
- 宇治に平等院鳳凰堂を建てる
でも…娘が皇子に恵まれず、外戚の座を失う → ここから陰りへ
もう少しくわしく
道長は娘たちを次々に天皇の后にして、3代の天皇の「母方の祖父」になりました。有名な望月の歌は、まさにその頂点の夜に詠まれたものです。満月のように欠けたところがない、という歌ですね。
でも、満月はそのあと欠けていきます。息子の頼通は約50年も摂関の座にいましたが、娘に皇子が生まれず、外戚という一番の武器を失ってしまいました。
絶頂と、陰りのはじまり。この2人は、ひとつながりで見るとよくわかります。
道長の娘は、彰子(一条天皇)、妍子(三条天皇)、威子(後一条天皇)の3人が后になり、「一家に三后が立つ」と驚かれました。望月の歌は1018年、威子が后になった祝いの席で詠まれ、同じ席にいた藤原実資の日記『小右記』に記録されています。道長自身は関白にならず、摂政も1年ほどでした。
紫式部は彰子に仕えた女房です。頼通のあと、藤原氏を母方に持たない後三条天皇が1068年に即位し、摂関家の力は大きく後退していきます。

主役交代:摂関家 → 上皇 → 武士へ
外戚として
政治を動かす
白河上皇が
「院政」を始める
平清盛が武士で
初の太政大臣に
源頼朝が征夷大将軍
=鎌倉幕府
もう少しくわしく
ここから、主役が入れ替わっていきます。摂関家のあとは、引退した天皇=上皇が政治を動かす「院政」。そして平氏、源氏と、武士が表舞台に出てきます。
院政の始まりから鎌倉幕府まで、100年ほどの間に、政治の中心がこれだけ動きました。
絵の中の公家が見つめているのは、自分たちに代わって時代の主役になっていく武士たちの姿です。
鎌倉幕府の始まりは、1192年の征夷大将軍就任のほか、1185年に守護・地頭を置いたときとする見方もあります。
なぜ、主役が入れ替わったのか
引退した天皇(上皇)が実権を握り続ける「院政」で、外戚という立場の力が弱まる
1156年 保元の乱・1159年 平治の乱。貴族の争いに動員された武士が勝ち上がる
- 平泉(岩手)で黄金文化。中尊寺金色堂
- 1189年、源頼朝に滅ぼされる
- 中央の摂関家とは別の系統
もう少しくわしく
なぜ主役交代が起きたのか。理由は大きく2つあります。
一つは、上皇が実権を握る院政のもとで、外戚という藤原家の武器が効かなくなったこと。もう一つは、もともと貴族の用心棒だった武士が、争いに駆り出されるうちに力をつけたことです。
番外編の奥州藤原氏は、同じ「藤原」でも京の摂関家とは別の系統です。混ざりやすいので、ここで区別しておきましょう。
1156年の保元の乱では、天皇家が崇徳上皇と後白河天皇に分かれただけでなく、摂関家も忠通と弟の頼長に分かれて争いました。摂関家の内輪もめを、武士の力で決着させたことになります。
奥州藤原氏は、清衡・基衡・秀衡・泰衡の4代、約100年にわたって平泉を治めました。藤原秀郷の子孫を名乗った一族で、京の摂関家とは系統が違います。
藤原本家、5つに分かれる ―「五摂家」
- 藤原忠通摂政・関白
- 近衛家基実が興す(平安末期)
- 近衛家
- 鷹司家
- 九条家兼実が興す(平安末期)
- 九条家
- 二条家
- 一条家
- 近衛家基実が興す(平安末期)
鎌倉時代以降、摂政・関白になれるのは
この5家だけ =「藤原本家の役員会」
でも、5家とも「藤原」とは名乗っていない。
・・・・・なぜ?
もう少しくわしく
力が弱まった藤原本家は、その後5つの家に分かれます。近衛・鷹司・九条・二条・一条の「五摂家」です。
鎌倉時代以降、摂政・関白になれるのはこの5家だけ。いわば「藤原本家の役員会」のような形で、ポストを分け合っていきました。
ところで、この5家はどれも「藤原」とは名乗っていません。それはなぜでしょう。次のページで、名前のしくみを寄り道して見てみます。
忠通の子・基実が近衛家、兼実が九条家のもとになります。13世紀に入って、近衛家から鷹司家、九条家から二条家と一条家が分かれ、鎌倉時代の中ごろに五摂家がそろいました。
家の名前は、京の屋敷があった通りや場所の名前から来ています(近衛大路、九条、鷹司小路、二条、一条)。九条兼実の日記『玉葉』は、源平の争乱期を知るいちばん大切な記録のひとつです。
名前の3レイヤー:氏・姓・苗字
朝廷が授ける
684年「八色の姓」で8段階に
各家が自分たちで名乗った
= 公式の名乗り「藤原朝臣道長」
近衛家の場合
氏は「藤原」のまま、日常の呼び名(苗字)が「近衛」。だから名乗りは近衛なのです。
1875年 平民苗字必称義務令 → 3つのレイヤーが「苗字」ひとつにまとまってから、まだ150年ほど
もう少しくわしく
昔の名前には、3つのレイヤーがありました。血筋のグループを表す「氏」、朝廷の中での家格を表す「姓」、そして日常の呼び名の「苗字」です。
道長の正式な名乗りは「藤原朝臣道長」。近衛家も、氏は藤原のままで、ふだんは「近衛」と名乗っていたわけです。
この3つが「苗字」ひとつにまとまったのは、明治になってから。まだ150年ほどしかたっていないんです。
684年に天武天皇が定めた「八色の姓」は、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の8つ。藤原氏は上から2番目の朝臣を名乗りました。
苗字は、平安時代の後半から、公家や武士が屋敷のある場所や治める土地の名で呼び分けるようになったのが始まりです。1870年に平民も苗字を名乗ってよいことになり、1875年には必ず名乗るよう義務づけられました。

力はなくても、「格」は残った
1467年 応仁の乱 荘園からの収入が途絶え、公家は困窮。地方の大名を頼る家も(例:土佐一条氏)
(形式上の養子)
関白に就任
約1000年の摂関の歴史で、藤原氏の生まれでない関白は秀吉と甥の秀次だけ
天下人でさえ、最高の権威には「藤原の名」が必要だった
もう少しくわしく
応仁の乱のあと、公家は荘園からの収入がなくなり、とても苦しい時代に入ります。
それでも、失われなかったものがありました。それが「格」です。天下を取った豊臣秀吉でさえ、関白になるには、五摂家の近衛前久の猶子、つまり形の上での養子になる必要がありました。
武力では比べものにならない相手の家に、天下人が入っていく。絵はその関係を象徴的に描いています。力はなくても、格は残った。このページでいちばん伝えたいところです。
応仁の乱のあと、一条教房は自分の荘園があった土佐(高知県)に下り、その子孫が戦国大名の土佐一条氏になりました。
秀吉は1585年に近衛前久の猶子となって関白に就き、翌年には朝廷から新しく「豊臣」の姓を授かります。関白は1591年に甥の秀次へ譲りました。
江戸幕府は、法律で縛った
天皇・公家を政治から切り離し、役目を学問と儀礼に限定
1627紫衣事件天皇の許可を幕府が無効に。天皇は退位へ
→ 公家は儀礼・和歌・蹴鞠などの「文化の守り手」として約260年を生きる
もう少しくわしく
江戸幕府は、秀吉とは違うやり方をとりました。法律で、天皇と公家を政治から切り離したんです。
禁中並公家諸法度で、天皇・公家の役目は学問と儀礼に限られました。紫衣事件では、天皇が出した許可を幕府が取り消しています。
こうして公家は、和歌や儀礼を受け継ぐ「文化の守り手」として、江戸時代の約260年を生きていくことになります。
禁中並公家諸法度の第1条には、天皇がまず身につけるべきは学問である、と書かれています。紫衣事件では、幕府の許しなく出された紫衣の勅許が取り消され、後水尾天皇は1629年に譲位しました。
華族となり、ふたたび政治の表舞台へ
1884年「華族令」― 西洋式の5ランク
最高位
飛鳥時代からの家格が、近代の法律上の身分に
1938年 陽明文庫を設立
道長の日記「御堂関白記」など、千年分の一族の記録を今に伝える(京都)
もう少しくわしく
明治になると、藤原家はもう一度、政治の表舞台に戻ってきます。華族令で、五摂家はいちばん上の公爵になりました。飛鳥時代からの家の格が、近代の法律上の身分として認められたわけです。
その近衛家から出たのが、首相を3度務めた近衛文麿です。日米開戦を止められず、戦後は戦犯容疑者として出頭する直前に亡くなりました。
一方で文麿は、一族の千年分の記録を守る陽明文庫を残しています。政治の結果と、文化を残した仕事。両方をあわせて見ておきたい人物です。
1884年の華族令で、旧公家や旧大名、国に功績のあった人が5つの爵位に分けられ、五摂家はいちばん上の公爵になりました。
近衛文麿の内閣は3度。1937年の第1次内閣で日中戦争が始まり、1940年の第2次内閣で大政翼賛会の発足と日独伊三国同盟の締結がありました。1941年10月に退陣し、東条英機内閣に替わります。
陽明文庫の「陽明」は近衛家の別の呼び名です。道長の日記『御堂関白記』は国宝で、2013年にユネスコの「世界の記憶」に登録されました。
制度は終わっても、血脈は続く
第14条「法の下の平等」により、華族制度は廃止に。
1300年続いた「制度としての藤原家」は、ここで終わり。
もう少しくわしく
1947年、日本国憲法の施行で、華族制度はなくなりました。法の下の平等のもとでは、生まれによる身分はありません。
鎌足から続いた「制度としての藤原家」は、ここで終わりを迎えます。
でも、制度が終わったからといって、すべてが消えたわけではありません。次のページで、いまも続いているものを見てみましょう。
華族制度は、1947年5月3日の日本国憲法の施行とともに廃止されました。

それでも、続いているもの
神道・学術・文化財など、家に伝わる伝統を継承
千年を超える一族の記録を、いまも保存・公開
768年創建、藤原氏の氏神。祀る神は中臣氏の祖先神=鎌足より前からのルーツ。1998年に世界遺産
一族が広がった、いちばん身近な末端の姿
もう少しくわしく
いまも続いているもののひとつめは、五摂家の子孫の方々。ふたつめは、陽明文庫に残る記録です。
そして奈良の春日大社。藤原氏の氏神で、祀られている神さまは、鎌足よりもっと前の、中臣氏の祖先です。藤原家のルーツは、名前が生まれる前までさかのぼれるんですね。
いちばん身近なのが、全国にたくさんいる「◯藤」さんたち。一族が広がっていった、その一番先の姿です。
春日大社の祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の4柱。このうち天児屋根命が中臣氏の祖先の神です。藤原氏の氏寺だった興福寺とあわせて、1998年に「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されました。
あなたの名字にも、藤原がいるかもしれない
藤原氏は中国風に「藤家」と呼ばれた → 巨大化した一族を見分けるため「◯藤」が次々に生まれた
役職(仕事)由来
土地(赴任先)由来
由来は2説
土地説
備後・肥後の「後」+藤原の「藤」
後裔説
「後」=後裔(子孫)。「藤原の末裔」そのものを表す
※名字の由来は複数の説があることも多い(例:佐藤は栃木の佐野・新潟の佐渡に由来する説も)
もう少しくわしく
最後は答え合わせです。藤原氏は中国風に「藤家」とも呼ばれました。一族が大きくなるにつれて、仕事や土地の名前と「藤」を組み合わせた名字が生まれていきます。斎藤、工藤、加藤、遠藤……。
ただ、名字の由来には諸説あり、名字だけで先祖が藤原氏だとは言い切れません。
気になる方は、戸籍をさかのぼって、一代ずつたどってみてください。1300年の歴史が、自分の家とつながる瞬間があるかもしれません。
佐藤の由来としてよく挙がるのは、藤原秀郷の子孫で左衛門尉だった公清が「佐藤」を名乗ったという説です。ほかの「◯藤」も、一族が地方へ広がるなかで、役職や土地の名と「藤」を組み合わせて生まれたといわれます。
ただし、名字は後から名乗ったり、別の家が同じ名字を使ったりすることも多く、名字だけで先祖が藤原氏だとは言い切れません。自分の家のルーツを確かめるには、戸籍などで一代ずつたどっていくのが確かな方法です。